時計を見上げる。
午後、十一時五十分過ぎ。
「だからここは、底の変換公式を使って…」
「ていのへんかんこうしき?」
「そう」
「…なんだっけ?」
「さっきやったばっかりだろっ」
今日は、十二月二十二日。
大学入試センター試験まで、あと、ちょうど一ヶ月。
一応、国立大学も受けるつもりのわたしは、文学部志望なんだけど、センター試験に向けて数学も頑張らないといけない。
それで、ここのところ、理学部志望の祐一に頼んで、数学を教えてもらってるんだけど…。
「…うにゅ」
「うにゅ、じゃない」
「…うにょ」
「うにょ、でもない」
「う〜」
「…判ったよ、もう少しやったら、休憩にしよう」
「うんっ」
「現金な奴…」
苦笑いする、祐一。
それから、さらさらっとノートの端にペンを走らせて。
「ほら、これが底の変換公式」
「うん…えっと、ここが七でこっちが三だから…」
「これで底を揃えてやれば、簡単に約分できるだろ?」
「えっと…うん。こことここが消えるよね」
「そしたらあとは簡単だろ。…その問題解いたら、少し休もうぜ。俺も疲れた」
「うん………あれ? 祐一」
「なんだ?」
「対数の足し算って、こっちの大きな数の掛け算になるんだよね?」
「底が同じならな」
「あ…」
「なんか今一つ心配だな…」
「…でも、この問題は終わったよっ」
「もう一問くらいやってからの方が…」
「休憩にしよっ、祐一っ」
時計を見ると、ちょうど十二時。
今日が終わって、明日が始まる時間。
祐一もちょっと時計を見て、そのことに気付いたみたい。
「…名雪」
「え?」
「ちょっと待ってろ。すぐ戻ってくるから」
少し、悪戯っぽく笑って、慌てたみたいにわたしの部屋を出ていって。
それから、本当に、ほんのちょっとで帰ってくる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「…ほら」
祐一、照れたみたいに鼻の頭を掻きながら、細長い直方体の包みを差し出す。
え…と?
「祐一?」
「プレゼント」
「え?」
「…今年の頭に、一ヶ月くらい遅れても気にしないよ、って言ってプレゼントねだった奴の台詞じゃないぞ」
「え…これ…」
「ああ。誕生日プレゼントだ」
少し祐一の顔が赤い。
やっぱり照れてる…んだよね。
祐一、プレゼントくれるなんて柄じゃないけど…そんな柄じゃないから、やっぱり余計に嬉しいよ。
「…祐一」
「ん? どうした?」
「ありがとう、嬉しいよっ」
「わっ、こらっ!?」
「ぎゅっ、てして…祐一…」
「…ああ」
長い、ハグ。
祐一の胸は、広くて、あったかくて……とくっ、とくっ、ていう規則正しい心臓の音が聞こえる。
このまま寝ちゃいたいくらい、気持ちいい…。
「寝るなよ」
「うにゅ…寝ないお〜」
「既にろれつが回ってないぞ…」
「大丈夫だお〜」
「ホントかよ…」
「うん…大丈夫…」
すりすり。
祐一の胸に頬ずりする。
ホント、気持ちいいな…。
「というか…開けないのか、それ」
「うにょ?」
「いや、だからそれ。プレゼント」
「…開けていいの?」
「いいのもなにも、開けなきゃしょうがないだろ」
離れるのは名残惜しかったけど…のそのそと祐一から離れる。
それから、手に持ったままだった箱の包み紙を、破らないように、そっと、解く。
…箱の中から出てきたのは、可愛らしい、ネックレスだった。
「わ…あ…」
綺麗なチェーンのネックレス。
先の部分には、小さな、銀色の猫さんが笑っている。
「探すのに苦労したぞ」
「うん…ありがとう…」
「付けてみろよ」
「うん…っと…」
正直な話、わたし、アクセサリー類は全然持ってないんだよね。
だから、目の前で、止めてある部分を外すだけでも、一苦労。
そんなわたしを見て、祐一、くすっ、て笑って。
「俺が付けてやろうか?」
「うん…お願い…」
「ああ。任せておけ」
祐一の手にネックレスを渡すと、首の後ろに手をやって髪を持ち上げる。
祐一の少し冷たい手が首の後ろに回って。
「出来上がり」
「………どう?」
「似合う…って言いたいとこだけど、パジャマじゃ、ちょっとな…」
「う〜ん……着替えようか?」
祐一、笑う。
「相変わらず、感覚が普通の女の子とずれてるよな」
「う〜、そんなことないよ〜」
「いいんだよ、そこが可愛いんだから」
「……祐一、ひょっとして恥ずかしいこと言ってる?」
「まあな」
二人で笑う。
「可愛いよ、祐一」
「…なんか複雑な気分だな」
「褒めてるんだよ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「……やっぱり複雑だぞ」
少し苦笑いの祐一。
…あ、苦笑いじゃない。
これ、照れ笑いだ。
照れてるときの祐一は、だいたい、苦い顔を作ってみせる。
「可愛い」
「だから、複雑だって」
「可愛いよ〜」
「そんなに連続で言うなよ…」
「可愛い〜」
「ったく…」
祐一、拗ねたようにそっぽを向く。
その仕草がまた可愛くて。
「祐一…」
抱きつく。
力一杯。
首に手を回して、腕が痛くなるくらい強く。
祐一も、わたしの背中に手を回す。
ぎゅっ、て。
強く。
「名雪…」
「ん…」
「今日は終わりにするか、勉強」
「うん…」
祐一の手が、そっと、わたしの頬を撫でる。
上目遣いに祐一を見上げて、目を閉じた。
ほのかに温かい唇が、静かに触れてくる。
触れ合う部分が脈打つような感覚。
ついばむようにお互いの唇を擦り合いながら、腕に込めた力を強くした。
くちゅ。
小さな水音を立てて、祐一の舌が入ってくる。
温かくて、柔らかい舌。
どれだけ強く摺り合わせても、どうしても絡み合うことのない舌。
それが、とっても、もどかしかった。
「…名雪」
「え…?」
「それ、癖か?」
「え…」
「キスしてるとしがみついてくる奴」
「ん…そうかも…」
可愛い奴、って祐一、笑って。
もう一度、わたしたちは唇を重ねる。
頭に直接響くみたいに、断続的に聞こえる、水音。
まるで立ちくらみみたいに頭がぼうっとしてくる。
きっと、顔は真っ赤になってると思う。
…祐一の手が片方だけ、わたしの背中から離れた。
それから、するっ、とパジャマの中に滑り込んでくる。
「あ……祐一…んっ」
「どうした? 名雪」
目を開けると、悪戯っぽく笑う祐一の顔。
わたしの返事を待っている間も、祐一の指はその動きを止めない。
「んっ…あんっ……ゆういちぃ…」
心臓がすごくどきどきしている。
耳がずきずきする。
「可愛いな、名雪は」
「んっ、んっ…」
息も絶え絶えになっているわたしの唇に、強引に自分の唇を重ねる。
息苦しさと気持ちよさと愛おしさに、頭の芯がくらくらする。
「はあっ…はあっ…んん…っん」
祐一の首に回していた腕も、もうほとんど力が入らない。
ぐったりしたわたしを、祐一、ひょいっ、と抱え上げると、軽々とベッドの上まで運んでしまう。
ぱちん。
電気が消える。
それから、ゆっくり、祐一の体が覆い被さってきた。
唇を合わせる。
わたしは、もうほとんど力の入らない両腕で、強く、祐一に抱きついた。
腕枕。
意外にがっしりして太い、祐一の腕。
祐一に腕枕をしてもらいながら、微睡みと覚醒の間をふわふわ彷徨う。
「なぁ…名雪…」
祐一も同じように、どこか、眠そうな声。
「なぁに…?」
「名雪って…可愛い声出すよな」
顔が熱くなるのを感じる。
「恥ずかしいよ…」
「どうして?」
「だって…やっぱり恥ずかしいと思うよ」
「…俺には判らないな」
少し笑って、祐一。
俺は男だからな、って付け加える。
「…ねえ、祐一」
「なんだよ?」
「祐一も可愛い声出して」
「はぁ?」
「出して〜。ね?」
「出せと言われて出るもんじゃないだろ」
「う〜…祐一、意地悪…」
「そんなこと言われたって、俺だって困る…」
「う〜」
「だからな…」
「う〜」
「……」
「う〜」
「…判ったよ。出してやるから」
「うんっ」
「現金な奴…」
祐一は苦笑してるけど、わたしにとっては結構切実な問題なんだよ。
だって…祐一の可愛い声、聞きたいもん…。
「お前、八年前のこと、憶えてるか?」
「ごまかそうとしてる…」
「大丈夫だ、してないぞ」
「ほんと?」
「ああ」
「う〜ん、と、八年前…」
まだ、わたしも祐一も小学生で。
一緒に雪だるま作ったり、かまくらつくったり、雪合戦したり…。
そんな思い出がよみがえってくる。
「何かあったの?」
「…誰とは言わないが、とある従兄妹の女の子がな、俺の弱点を発見したんだ」
「わたし?」
「誰とは言わないが、名雪って名前だったような気がするぞ」
「…言ってるよ」
「じゃあ、某名雪だ」
「全然某になってないよ…」
「そういう訳だから、その弱点を攻撃すれば、多分甘い声を出すぞ」
「…どこなの?」
「それは秘密」
「う〜」
「こらっ。そこで拗ねるなっ」
「う〜」
「拗ーねーるーなー」
「う〜」
「……」
「う〜」
「…判ったよ、言うから」
「うんっ」
「……俺、この先ずっと名雪には勝てないような気がする…」
「気のせいだよ」
「…だといいけど」
「それで、弱点ってどこ?」
「……………………耳」
「耳?」
「ああ」
「耳……」
のそのそっ、と、頭を動かして、祐一の顔のすぐ隣までくる。
「上向いて」
「嫌だ」
「う〜」
「判ったよ。向けばいいんだろ」
「うんっ」
渋々、上を向く祐一。
当然、その耳はわたしの方を向くことになる。
…そっと唇を近付けて、息を吹きかけてみた。
ぴくっ!
祐一の体が、震える。
「ほんとだ、面白いよ〜」
「うー」
くすっ。
くすぐったそうで、嬉しそうな祐一の顔を見て、なんとなく幸せな気分になる。
「可愛い、祐一…」
「…複雑」
「もっと可愛がってあげるよっ」
「あ? ちょっと待っ、名雪っ!?」
くちゅ。
祐一の耳に、舌を這わせる。
「うっ、んっ!」
祐一の頭を抱え込むように抱いて、執拗に耳を舐め回す。
その度に、祐一の体が跳ね上がって、甲高い声が漏れる。
「こ、こらっ! 名雪っ、やめっ!」
「やめないよ〜」
「やっ、やめっ、んっ…んんっ」
断続的に、ぴちゃぴちゃ水音が鳴る。
それがなんだかとってもいやらしくて…。
甲高い喘ぎ声を上げる祐一が可愛くて…。
「可愛いよ〜、祐一〜」
「あうっ、んっ」
「可愛いって認めたら、やめてあげるよ」
「んっ、あっ、うっ」
「ねえ…認める?」
「認めるっ! 認めるからっ!」
「うん。判ったよ」
解放すると、祐一…ぐたっ、と頭を倒してしまう。
「祐一…?」
「疲れた」
「ん…よしよし」
「お前が疲れさせたんだっ、て突っ込む気力も残ってない」
「…言ってるよ」
にっこり笑う。
時計を見ると、ちょうど、二時を指していた。
Von fernem Hier mit dem herzlichen Gebet.
00/12/23 橘 和馬