きーん、こーん。
日本全国どこへ行っても同じようなチャイム。
それが鳴ると同時に、俺は、まだ板書を終えてすらいない教師の制止の声を振り切って、廊下へと飛び出す。
…目指すは、中庭。二年生校舎と一年生校舎の間にある、中庭。
まだ授業が終わったばかりで人もまばらな廊下を、全力で駆け抜けていく。
砂時計の砂、一粒分でも早く…栞に会うために。
「……それなのに、どうして、栞の方が、早いんだ…」
「四時限目が自習だったんです」
…息も絶え絶えに辿り着いた俺を、余裕の笑顔で迎える、栞。
花壇の縁にちょこんと座って、膝の上に、なんとか大分小さくなった(それでもまだ標準の倍近くあるが)弁当箱を乗せて。
「どうして、栞ばかり、いつも、そう都合よく、早く終われるんだ…」
よたよたと歩き寄って、栞の隣に座る。
まだ少し息があがったままの俺に、栞、魔法瓶から注いだお茶を差し出しながら、
「…でも、嬉しくありませんか?」
「……何が?」
「私が先に来て、祐一さんを待っていることが、です」
「…?」
「私、祐一さんを待っているのは嫌いではないですけど…でも、私が来た時に、祐一さんが先に来ていて私を待っていてくれたら、きっとすごく嬉しいと思います」
「…そんなもんか?」
「そうですよ。…待っている間、私、すごく不安なんですから」
「……」
「なかなか祐一さんが来ないと、待ち合わせの時間を間違えたのかな、とか、場所はちゃんと合ってたかな、とか、ひょっとしたら祐一さん、私との約束忘れちゃってるんじゃないかな、とか…」
「…栞」
「でも祐一さんは、遅れることはあっても、絶対に約束は破らない人ですから」
「…買い被りだろ」
「そんなことないです」
「……」
「…あの」
「ん…?」
「お弁当、食べませんか?」
「…そうだな、腹も減ってるし」
「はい。沢山食べてくださいね」
笑顔の栞から差し出される弁当箱も、随分標準に近くなった。
もうあの哀しい表情を覗かせることもない、一風変わった少し不思議な、でもどこにでもいるような女の子になった栞…。
もう、哀しい約束の時間に縛られることもなくて、
普通の、
本当に普通の、
いつか必ず別れの時が来てしまうことも知らずに、
いつまでも一緒にいられることを信じて疑わない、
幸せな、
恋人同士になった俺たち。
「…祐一さん?」
「なあ、栞…」
「はい」
「……"さん"付けで呼ぶの、そろそろやめないか?」
「え…それはつまり…」
「ああ」
「"祐一ちゃん"って呼んでほしかったんですね」
「おい…」
「なんですか? 祐一ちゃん♪」
「誤魔化すつもりなんだったら、これからずっと栞のことは"しおりん"って呼ぶ」
「…それは……すごく恥ずかしくないですか?」
「お互いに、な」
「………判りました。祐一さんのことを呼び捨てで呼べばいいんですよね?」
「ああ」
「でも、どうして急にそんなこと言い出したんですか?」
「…ただなんとなく、な」
ただなんとなく、恋人同士が名前で呼び合うアレをやってみたかっただけだ。
それこそ王道中の王道だけど、今の俺たちにはそういう"お約束"が似合うような気がしたから。
「……でも、ヘンじゃないですか?」
「…?」
「私の方が祐一さんより年下ですし…」
「別に関係ないだろ? 恋人同士なんだから」
「それでも…やっぱりちょっと…」
「嫌か?」
「嫌…ではないんですけど、緊張するというか、気恥ずかしいというか……えぅ〜、難しいです…」
少し照れ笑いを浮かべて、それを隠すように熱いお茶の入ったカップを傾けて。
それから、覚悟を決めたように、俺の目を真正面から見つめる。
「……」
「……」
「……えーっと」
「……」
「…祐一……さん」
「……どうした?」
「……やっぱり恥ずかしいです…」
…頬を赤くして伏し目がちに俺を見上げるその表情が、素直に可愛いと思えた。
「栞…」
いつものようにその頭に手をやり、髪を撫ぜようとした、その時。
「しーおりっ」
いきなり冷たい手が俺の視界を遮った。
どうやら誰かに後ろから目隠しされたらしい。
しかも、この声からして…。
「香里かっ!」
勢いよく体をひねり、遠心力で引き離そうと試みる。
…ところが、香里はあっさりと俺を放したらしく、逆に勢い余って俺が転がり落ちてしまう羽目に遭った。
………全く以てうぐぅだ。
「…何してるの?」
「見ての通りだ」
「見て判らないから聞いてるんだけど」
「転んでる」
「……そうね」
転がり落ちた格好のまま恨めしげに睨み上げてみる。
……当然というか何というか、見下され返した。
「こんにちは、栞ちゃん」
「あ、名雪さん…」
「いいお天気だね」
「はい」
「香里とお弁当食べるつもりで来たんだけど、お邪魔しちゃってもいいかな…?」
「…はい、もちろんです」
「ごめんね、栞ちゃん」
…なにやら上の方では、名雪と栞が話しているらしい。
相変わらず俺の視界は香里が遮っているため、その様子を見ることはできなかったが。
「…しかし」
体を起こし、制服に付いた砂埃を払いながら、俺。
「ああいうことは、もう少し場所を選んでやってほしいんだけど…」
「だから、絶好の場所を選んでやったんじゃない」
「…あのな」
「冗談よ」
言って、クスリと笑う。
こういうところが、やっぱり栞と姉妹なんだな、と思わせる仕草だ。
「ところで、随分いいムードだったみたいだけど、一体何を話してたのかしら?」
「…どうしてそうなる」
「別に。相沢くんと栞が普段どんなことを話しているのか知りたいだけよ」
「あ、それ、わたしも気になるよ」
「……話してやる義理はないぞ」
「いいじゃない、減るものでもないんだから」
「そうだよ…それとも何か、わたしたちには話せないようなこと言ってたの?」
…名雪にしては妙に鋭かった。
いや、別にやましいことをしていた訳ではないが、なんとなく、この二人には言いづらい。なんと言っても、俺は名雪と、栞は香里と、それぞれ否が応でも毎日顔を合わせる訳であるからして、下手なことを知られてからかわれるのも恥ずかしい。
……呼び捨てて呼んでくれなんて、普通自分から言うもんでもないしな。本来なら。
「えぅ〜。お姉ちゃん…名雪さん…聞いてください……」
しかし、俺が何とか誤魔化そうと考えを練っている間に、栞がふにゃっとした声を上げて香里たちにしなだれかかる。
「祐一さんが意地悪言うんですぅ…私を脅迫して、無理矢理恥ずかしいこと言わせようとするんですよ……」
「ちょっと待てっ! どこからそんな単語が出てくるんだっ!」
「ふぅん……相沢くん。ちょっと詳しく聞かせてもらおうかしら」
「祐一、最低」
「待てぇぇぇぇっ!」
・
・
・
「…と、いう訳なんです」
「ふぅん…」
「へぇ…」
(ある意味)ボロボロになった俺を、名雪と香里が肩越しに振り返って見る。
「それは確かに、脅迫して恥ずかしいことを無理矢理言わせようとしてると言えなくもないわね…」
「はい。日本語って便利ですっ」
「……」
「でも、そういうことなんだったら早く言えばよかったじゃない、相沢くん」
「…言う暇もなかったぞ……」
「気のせいよ」
「…でも祐一、どうして急に栞ちゃんに呼び捨てで呼べなんて言い出したの?」
「……別に。ただなんとなくだ、なんとなく」
「ただなんとなく、栞ちゃんに"祐一"って呼んでほしくなったの?」
「…妙に絡むな、名雪」
「……そんなことないよ」
「絶対そうだって。香里もそう思うだろ」
「さあ、どうかしら」
「…二人して何か隠してるだろ……」
「なんでもないよ」
「…判った、諦める」
「それが賢明ね」
「……香里の今の一言で、またすごく気になりだしたんだけど…」
「だーめ、諦めなさい」
「…うぐぅ」
「何、それ?」
「秘密」
「あゆちゃんの口癖だよね」
「秘密って言ってるそばからばらすなっ」
「あゆちゃんって誰…?」
「あゆか? あゆは…うぐぅの正当な伝道者だ。な、栞」
「……」
「栞?」
「……」
「おーい、しおりー」
「…え?」
「どうした、ぼーっとして」
「……ちょっと、考え事をしていたんです」
「何考えてたんだ?」
「…祐一さん、名雪さんのこと何て呼びますか?」
「……名雪」
「お姉ちゃんのことは?」
「香里」
「あゆさんのことは?」
「あゆ」
「川澄先輩のことは?」
「舞」
「……」
「…どうしたんだ?」
「あの、祐一さん。私、祐一さんのことを呼び捨てで呼ぶのに、一つ条件があるんです」
「何だ?」
「これから、私以外の女の子のことを名前で呼び捨てにするの、やめてください」
「……」
「なんか悔しいんです。私以外の女の子のことを、そんなに親しげに呼んでるのを見ると」
「……」
「…ダメですか?」
「……駄目じゃない」
「よかったです。駄目なんて言われたら、祐一さん嫌いになっちゃうところでした」
「それは困ったな…」
「でも、ちゃんといいって言ってくれましたから」
「そうだな」
「…でもそうすると、わたしはこれからなんて呼ばれるのかな?」
「……"いとこの少女"くらいしか思い付かないぞ…」
「思い付かないんだったら、なゆちゃんでいいよ」
「呼べるかっ! それに第一、それだとかえって栞が嫌がるだろ」
「私は構いませんよ」
「…おい」
「じゃあ、決まりだね」
「それなら、あたしはどうなるのかしら」
「…クラスメイトなんだから、呼び方なんてそれこそいくらでもあるだろ。"美坂"でもなんでも」
「思い付かないんだったら、義姉さんでいいわよ」
「呼べるかっ!!」
「お姉ちゃん、ナイスアイディアですっ。それでいきましょう」
「……栞。今まで通り"さん"付けで呼んでいいから、もう許してくれ…」
「ダメですよっ。私が祐一さんのことを呼び捨てで呼ぶ代わりに、祐一さんはお姉ちゃんのことを"お義姉ちゃん"って呼んでくださいねっ♪」
「…うぐぅ」
「誤魔化してもダメです。ね、祐一……さんっ」
Von fernem Hier mit dem herzlichen Gebet.
01/7/11 橘 和馬