四月も終わりに近付き、陽気も少しずつ春から初夏へと移り変わっていく頃。
…もしこの季節にこっちに越して来てたら、これを初夏なんて絶対に思わなかっただろうな。一番厳しい季節を知っているからこそ、だ。
そんな感慨に浸りながら、学校の敷地の隅っこにある花壇の縁に座って、名雪の手作り弁当をいただく。
……授業なんか真面目に受けるつもりのない俺の、学校に来る唯一の楽しみだ。
「…ね、おいしい?」
「ああ、うまいよ」
「よかった…」
肩もぴったり触れ合うほどの至近距離。
わずかに緑の萌えだした花壇の縁に、名雪と並んで座っている。
…他の生徒は、誰もいない。
名雪に聞いたところ、ここは日当たりがいい上に人も少ない、絶好の逢瀬スポットらしい。
いや、勿論、逢瀬スポットだと名雪が言った訳じゃないけど。
「二人っきりだね」
俺の考えを見透かしたかのように、名雪が呟く。
少しはにかんだように微笑みながら。
「…そうだな」
「うー」
「何だ、名雪?」
「祐一、素っ気ないよ…」
「そうか?」
「そうだよ。わたし、言うのすごく恥ずかしかったんだから」
「そうか。名雪はまだまだ修行が足りないな」
思わず顔がほころぶのが自分でも判る。
そんな俺を見て、少し拗ねたように横を向いて…でも、ちらちらと横目で俺の方を見ていて…俺がそれに気付いていることに気付いて、大袈裟に体ごと後ろを向いて…。
可愛い奴。
心底、そう思う。
「名雪」
後ろから抱き付く。
首に手を回して、そっと体重をかける。
さらさらの綺麗な髪に頬を寄せて。
耳元に、そっと、囁く。
「……うー。祐一、ずるいよ…」
「何がだ?」
「…そういう恥ずかしいことは、面と向かって言ってよ〜」
「恥ずかしいから、面と向かって言わないんだよ」
「ずるい〜ずるい〜。わたしいつも、ちゃんと祐一の目を見て言ってるもん」
「それが余計恥ずかしいんじゃないのか…?」
「うん。どきどきするよ」
「じゃあ、やめればいいだろ」
「違うよ〜。どきどきするのがいいんだよ〜」
……なんか、よく判らないけど判ったぞ。
「名雪は今、どきどきしてるのか?」
「うん。もちろんだよ」
「そうか…」
勿論、と言ってる割には、相変わらずマイペースな名雪のこと、あまりどきどきしてるようには見えない。
…別に疑う訳ではないが、なんとなく確かめてみたくなった。
「…なぁ、名雪」
「うん?」
一度身を離す。
それから、名雪の肩を掴んで、その向きを変える。
…名雪の方を向いたままの俺からすると、その横顔が見えるような向きに。
「どうしたの? 祐一」
「いや…ちょっと、そのままでいてくれないか?」
「うん、いいけど…」
俺が肩を掴んだままなので、顔だけ俺の方に向けて、名雪。
俺が何をしたいのか…というか、これからするのか…全く判らないでいるようだ。
肩から手を離す。
名雪の顔には相変わらず疑問符が浮かんでいるが、体の向きを変えようとはしない。よしよし。
それでは、遠慮なく…。
「わっ。ゆ、祐一?」
とくっ、とくっ。
とくっ、とくっ。
とくっ、とくっ、とくっ、とくっ…。
押しつけた耳に直接伝わる、名雪の鼓動。
「何? どうしたの?」
「いや、心臓の音。ちょっと聞いてみたくなった」
「…びっくりしたよ」
「……そうみたいだな」
とくっとくっとくっ。
とくっとくっとくっ。
少し、ペースが速く、強くなっている。
「…聞こえる?」
「ああ。聞こえるぞ」
「……どうかな?」
「どう、って何だよ」
「ちゃんとどきどきしてる?」
「ああ、してる」
「…よかった」
名雪、安心したように息を吐く。
そして、呼吸に合わせて胸が上下するのが、やはり直接伝わってくる。
…不思議と頭がぼーっとするような感覚。
規則正しい心臓のリズムと、規則正しい呼吸のペースが、不規則に俺の耳を包んでいた。
……しかし。
「あったかいな…こうしてると」
「うん。あったかいよ」
正直言うと、春の日差しと相まって少し暑いくらいだ。
でも、不快じゃない、気持ちいい、名雪の体温。
「もっと早くに気付けばよかったな」
「そうだね…」
「今年の冬はずっとこうしてるか」
「ずっとはダメだよ。香里に見つかっちゃうよ」
「香里に見つからなきゃいいのか…?」
「それに、お風呂の時とか困るよ」
「風呂に入ってる間は寒くないだろ」
「そういえば、そうだね」
相変わらず、少しズレている。
でも、そんなところも可愛いと思う。
それは、ずっと昔から。
「…祐一」
「ん?」
名雪の指が、俺の髪の間を滑り抜ける。
何度も、丁寧に俺の髪を梳く。
「こうしてると、なんだかお母さんになったみたいだよ」
「…俺が子供役か?」
「ううん、祐一はお父さん役だよ」
「……?」
「赤ちゃんがお腹蹴る音を聞いてるの」
「…でもそれだったら、もうちょっと下だろ」
「うん…でもね、そんな感じがするんだよ」
耳を離して名雪を見る。
「あ、でも」
屈託のない笑顔。
思わず、こっちの方が赤面してしまうような。
「まだ早いよね」
……今の俺はきっと、耳まで真っ赤になってるんじゃなかろうか。
完全に動けなくなった俺に、名雪は妙に確信犯っぽい笑顔を向けると、
「じゃ、今度はわたしの番だよ」
と言って、俺の胸板に頬を擦りつけた。
Von fernem Hier mit dem herzlichen Gebet.
01/4/11 橘 和馬