うー、寒い寒いっ。
いつも通り、舞に差し入れをしに学校に行った、その帰り。
普段にも増して寒風吹き荒ぶ雪の小径を、俺は小走りに駆けていった。
こりゃ、帰ったらすぐに風呂に入って体あっためないと駄目だな。
んで、さっさと寝ないと。
今日はいつも以上に疲れた…。
道を右に折れて、三軒目。
水瀬、という表札のかけられた、暖かい色の門灯が灯る家。
俺はいつも通り、そっと音を立てないようにドアを開けようとして…ん?
玄関に明かりのついていることに気付く。
…誰か来てるのか?
まさか、俺を出迎えるためであるはずはない。
この時間には名雪は寝てるし、秋子さんも、夜中に出たり入ったりする俺に干渉することはない。
……。
かちゃ。
小さな音を立ててドアが開く。
…明かりがついているのは玄関だけだった。その先に伸びる廊下には、冷たい闇が広がっている。
そして、その玄関には。
「うおっ!?」
「くー」
…正座したまま、名雪が眠っていた。
大方、寝ぼけてこんな所まで降りてきたんだろう。
……どういう寝ぼけ方だよ。
「おい、名雪」
「くー」
「くー、じゃないだろ」
「すー」
「名雪。こんなとこで寝てると風邪ひくぞ」
「くー」
まさかこんな時間に大声を出す訳にはいかないだろう。
座っている名雪の肩を掴んで前後に揺すりながら、耳元で呼びかけるしかない。
「名雪」
「…うぐ」
「起きろ、名雪」
「………うにゅ? …あれ、祐一」
「…きっとまた寝ぼけて降りてきたんだろ。こんなとこで寝てると風邪ひくぞ」
「…違うよ」
「ん? 何が違うんだ?」
「寝ぼけて降りてきたんじゃないよ。祐一を待ってたんだよ」
…まだ寝ぼけてるのか?
それにしては言動がはっきりしているような気がするが、油断はできない。
何と言っても、相手は名雪なのだ。
「…どういう意味だ?」
「祐一」
ぴしゃりと遮るように、名雪。
少しの非難を含んだまっすぐな目で、俺を見る。
「どこに行ってたの」
「…魔物退治だよ」
「はぐらかさないで」
非難の色が濃くなる。
…そんなこと言ったって、どう説明しろってんだよ。
「学校、でしょ」
何も言えない俺を追いつめるように、名雪の声が響く。
正直、体温が下がっていくような感じがした。
ごくり、と大きな音を立てて唾を飲み込むが、喉はからからに乾いたままだ。
「…川澄先輩に会いに行ってたんだよね」
どくん。
心臓が一つ、大きく打った。
考えてみれば、当たり前かも知れない。
舞は何かとガラス割りの常習犯ということで有名だし、最近、舞と一緒に木刀を振っているところを、名雪にも何度か見られている。
「………そうだ」
努めて平静な声を出そうとしたが、その声は、掠れに掠れて、震えていた。
無様な俺の態度に…名雪は…冷笑…を浴びせて、すっ、と立ち上がると。
「そう」
短くそれだけ言って、階段を上がっていった。
その背中があまりに俺を拒絶していて、俺は声をかけることができない。
やがて、足音が小さくなっていって…ぱたん、という音の向こうに消える。
……俺は、自分の身に何が起こったのか、正直、理解できずにいた。
名雪が俺に見せた…冷笑…は、俺が一度も見たことのないものだった。
そんな表情、決して見ることがないと信じていた。
七年間。
七年間名雪は待ってくれた。
俺が七年前のことを忘れていても、絶えず笑顔で接してくれた名雪。
そんな名雪が見せた、俺のことを心底軽蔑した表情…。
…このままでいい訳がなかった。
俺は、ゆっくりと、はやる鼓動を押さえるようにコートの胸元を掴みながら、一段ずつ、階段を上っていった。
……暗く静まった、名雪の部屋。
そのドアの前に、静かに立つ。
こんこん。
小さなノックの音。
中から反応はない。
「名雪…」
小さく呼びかけてみる。
もう、寝てしまったんだろうか。
沈黙が痛いほど耳に突き刺さる。
「なゆ…」
「なに」
俺の声よりも更に小さい、抑揚のない声。
どうやら、ドアにもたれかかって座っているみたいだった。すぐ近くから声は聞こえる。
「……ごめんな」
「なんで謝るの」
「……」
ドアの向こうで、名雪、笑う。
「何も判ってないんだね。もういいよ。話したくない」
「名雪」
「もう行って。話したくない」
「行かない」
俺はその場に座り込んで、ドアに背を預ける。
「……名雪。確かに俺は、なんでお前が怒ってるのか判らない。だから、教えて欲しい。どうして名雪が怒ってるのか」
「…何言ってるの?」
「教えて欲しい。それから、ちゃんと名雪に謝りたい」
「…言わない」
「……言ってくれるまで、ずっと待ってる」
「好きにして。わたし、もう寝るから」
「ああ。判った」
ドアの向こうから、名雪の気配が離れていった。
俺は小さく溜息を吐いて…少し姿勢を直す。
正直、朝まで座り続けるつもりだった。
それは、名雪のことを判らない俺に対する苛立ちだったのかも知れない。
それとも、俺ができることはこれだけだったからなのかも知れなかった。
…そういえば、玄関の明かりがつきっぱなしだった。
鍵は、多分、名雪を起こす前に閉めただろう。それならいい。
今、ここを離れる訳にはいかない。
ただひたすら待つ。
寒い。
上はコートを着ているからまだいいものの、スリッパも履いていない足では、廊下は冷たすぎた。
あっと言う間に感覚がなくなり、じんじんと痺れるような痛みを訴えている。
…名雪も、こんなことを考えていたんだろうか。
七年前、俺を待っていた駅前で。
吐き出す息が白い。
いくら家の中といっても、夜の廊下だ。
多分、気温は氷点下まで下がっているだろう。
俺の記憶が正しければ、明日…それとも今日か…の最高気温は、零度を割っていたはずだった。
…名雪は何に怒ったんだろう。
俺が舞の所に行くのが気にくわないんだろうか?
……とてもじゃないが、そんな、自惚れる気分にはなれない。
待つ。
それは、とても自分の無力さを感じさせる行動だった。
俺には何もできない。
ただ、名雪を、待つ。
俺は待っているだけ。
俺は気が遠くなった。
夜が明けて、名雪の部屋の目覚ましがなるまで。おそらく七時間程度だろう。
七時間。
それでもいい。俺が名雪を待たせた時間に比べれば、たった、七時間だ。
きつく拳を握りしめる。
指先を襲う感覚は、冷たさを通り越して痛みに変わっていた。
時間が長く感じる。
ただ、暗い廊下に、俺の呼吸だけが響いていた。
「祐一」
小さな声がした。
いつの間にかは判らなかったが、名雪は再びドアの近くに座っているみたいだった。
「なんだ?」
「まだ…いたんだ」
「言ったろ? 話してくれるまでずっと待ってるって」
「……」
呆れたような、安堵したような溜息が、聞こえる。
「あのね、祐一。わたしだって普通の女の子なんだよ」
小さな声。
それでも、抑揚の戻った、普段の名雪の声。
困ったような、俺を諭すような、自分に言い聞かせるような響きを持って、名雪の言葉は続く。
「やっぱり、好きな男の子が他の女の子と仲良くしてたら、嫌だよ…」
「……」
「嫉妬だよね、これって。…わたし、祐一が思ってるほど優しい子でも、強い子でもないんだよ」
「…ごめん」
「なんで謝るの?」
さっきと、全く同じ台詞。
でも、その響きには拒絶の意志は感じられなくて。
俺の言葉を待っている、そんな気持ちを感じて。
「名雪に嫌な思いさせたから」
「……」
「だから、ごめん」
「…うん」
「俺、甘えてたんだな」
しんとした廊下。
ドア一枚隔てて、名雪と背中合わせに座って。
面と向かっていたら、恥ずかしくて言えないかも知れない台詞。
顔が見えないからこそ、伝えられるのかも知れない気持ち。
「名雪がずっと俺のことを好きでいてくれた…ってことに、舞い上がってたんだな…」
「祐一…」
「ごめんな、名雪。俺、お前のこと好きだなんていいながら、結局お前のこと何も考えてなかった…」
「…イチゴサンデー」
「ああ。…明日、今までの分も全部おごってやる」
「明日…」
「部活、休みだろ、確か」
「うん…」
ドアの向こうから、くすくすと笑い声が聞こえる。
「なんだよ?」
「ううん、なんでもないよ」
「そうか? …ならいいけど」
「……中に入らない?」
「いいのか?」
「うん…そこ、寒いでしょ…」
言葉が終わらないうちに、名雪の気配がドアから離れた。
すぐに、かちゃっ、と音を立てて、鍵が外され…ゆっくりドアが開く。
そっと部屋に入っても、やっぱり寒かったが。
「お前こそ、寒かったんじゃないか…」
コートまで着た完全防備の俺に比べると、パジャマの上に半纏を羽織っただけの名雪の方が余程寒そうだった。
当の名雪は、ううん、と首を振ると、小さく笑って、
「毛布をかぶってたんだよ…」
ドアの裏側に置かれた、毛布を指さす。
「なるほど、その手があったか」
「うん」
頷きながら名雪、ドアを閉めると、肩から毛布をかけてぺたんと座り込む。
どうしたもんかとそのまま立っていると、
「はい、祐一」
毛布の右側を開けて、名雪。
俺は来ていたコートを脱いで床に放ると、その中にごそごそと潜り込む。
毛布は、名雪の体温で温かくなっていた。
それと同時に、俺の左腕にまとわりつく、温かい名雪の腕。
「わ。冷たいね〜、祐一」
「そりゃ、ずっと廊下にいたんだからな」
「冷たいよ〜」
「名雪はあったかいぞ」
「わっ」
「どうした、名雪?」
「冷たいよ〜、祐一」
「…嫌か?」
「ううん…このままがいいな…」
「ああ…判った…」
「…ねえ、祐一?」
「ん?」
「昔も、こんな風にしてたことあったよね」
「そうか? 俺は憶えてないぞ」
「わたしは憶えてるよ…あの時祐一が言ってくれたことも、全部憶えてるよ」
「記憶力がいいんだな…」
「あー、そういえばなんとなく思い出したかも知れない」
「…なにを?」
「昔、こうしてた時のこと」
「うん」
「でも、何言ったかまでは憶えてない」
「うん」
「…何言った、俺?」
「内緒」
「………気になるぞ」
「でも内緒」
「ヒント」
「わたし、嬉しかったよ」
「…思い出せない」
「うん」
「名雪…」
「うん」
「名雪は…あったかいな…」
「…祐一も、あったかいよ」
「……………」
「祐一?」
こてん、と、名雪の肩に頭を預ける。
心地よい名雪の体温に包まれたまま、眠りたかった。
そっと名雪の手が伸びてきて、俺の肩を抱く。
俺はそっと目を閉じ、そして…。
「朝〜、朝だよ〜。朝ご飯食べて学校行くよ〜」
ゆらゆらゆら。
体が前後に揺れているような気がする。
目覚ましが鳴っている。
止めないと。
「…痛いよ、祐一」
「んー?」
「ひょっとして、寝ぼけてる?」
「んー…ん? 名雪?」
「あ、寝ぼけてるんだ」
…どうやら、あのまま名雪の部屋で眠ってしまったらしかった。
俺の目の前には、制服に身を包んだ名雪の姿がある。
……ひょっとして、俺が寝てる間に着替えたんだろうか。
「ちょっと残念」
「残念って、なに?」
「いや、なんでもない…って、もう朝か…?」
「うん。今日もいい天気だよ」
開け放たれたカーテンの間から、朝の白い光が射し込んでいる。
ベッドの枕元に所狭しと並べられた目覚まし時計たちは、軒並み揃って七時十分前を示していた。
「しっかし…名雪がこんな時間に起きるなんて、奇跡だ」
「う〜、わたしだってたまにはちゃんと起きるよ〜」
「毎日こうだと助かるんだけどな…」
「遠い目で言わないでよ〜」
「さてと、俺は部屋に戻るぞ」
「…ごまかしてる?」
「いやいや、そんなことはないぞ」
「…ごまかしてる」
眉を曇らせる名雪の頭を、ぐしゃぐしゃと撫でる。
名雪、わ、と首をすくませて。
「それじゃ、な」
「うん。早く着替えて降りてきてね」
「…どうして笑うの?」
「いや、いつもと逆だなと思ってさ」
「…そうだね、逆だね」
ぱたん。
後ろ手にドアを閉めて。
名雪には聞こえないように、小さく呟く。
「でも、お前に起こされるのもいいかもな」
Von fernem Hier mit dem herzlichen Gebet.
00/12/17 橘 和馬