失敗した。
身を切るような寒さの雪の街を歩きながら、あたしは痛切にそう感じていた。
何故って、そりゃ。
「ねぇねぇ、この道、二人でかけっこしたの憶えてる?」
「このカーブね、ゆーこちゃんがよく転んでたとこだよ」
「昔はよく、さ、この先の公園でかまくらとか作ったよね」
「かくれんぼした時にさ、ゆーこちゃん、そこの塀の間に隠れて…」
エトセトラエトセトラ。
とにかく雪也は、よく喋った。
それも、あたしがらみのコトで、あたしが憶えてないようなコトを、だ。
「…雪也。ストップ」
「うえ?」
嬉しそうにあちこち示しては思い出話を語っている雪也の肩を掴んで、強制ストップ。
「昔の話はいいから、今の話をしてくれない?」
「…今の話?」
「そう。あたしがこの街で生活するのに、必要だと思われる話」
少なくともそれは思い出話じゃない。
「ん、そうだね」
またすぐ笑顔に戻って頷くと、雪也、唇に人差し指の第一関節辺りを当てて、考え込む仕草をする。
…決して、男の子がやっていい仕草じゃないような気がするぞ、あたしは。
「ゆーこちゃんが行くところ…かぁ。まず、学校だよね」
「それから、駅ね」
「うん。あと、近くのお店とか」
「…ま、そんなところね」
指折り数えると、雪也、また考え込む仕草で、
「どこから行こうか?」
「近いところから順番でいいわよ」
「それじゃ、商店街だね。こっちだよ」
進行方向右手を指して、意気揚々と歩き出す雪也。
その背中を追って歩き出して…ふと気付く。
「雪也」
「なに〜?」
「あんた、背中に名前付いたままよ?」
"Yukiya Minase"
雪也のウインドブレーカーの背中にプリントされた文字だ。
「うん。部活のやつだからね」
「…そうじゃなくて、いいの?」
「なにが?」
「恥ずかしくないのかって聞いてるんだけど」
「恥ずかしくないよ。…なんで?」
「ううん、恥ずかしくなければそれでいいんだけど…」
「…変なゆーこちゃん」
雪也に言われちゃおしまいだわ。
…伯父さん風に言えば、雪也にそう言われちゃったあたしはもうおしまいってコトになるけど。まあ、深く考えないことにしよう。
「でも、不思議だね」
「…何が?」
「こうやってゆーこちゃんと一緒に歩いてることだよ」
「…まぁ、急に決まったことだしね」
父親の急な異動。
それが、あたしが伯父さんの家に厄介になることになった理由だった。
フロリダだそうだ。
あたしも一緒に行くつもりだったんだけど、何故かしら、伯父さんがあたしを引き取ることを提案したらしく、そして何故かしらあたしの両親もそれを承諾(それも、快諾)したらしい。
そしてあたしは今ここにいる。
「それもあるけど、それだけじゃないよ」
少しだけ、表情を曇らせる雪也。
ほんの僅かに伏せた瞼の表す感情は、判らない。
「もう、ゆーこちゃんには会えないんだって思ってたからね…」
「……」
まっすぐ、あたしの目を見る、雪也の目。その、青く透き通った虹彩。
「ゆーこちゃん。…僕の書いた手紙、届いてた?」
「…そういえば、来てたような気もするわ」
「たくさん書いたんだよ。毎年、三回か四回くらいずつ」
「そう…ね、確かに来てたわ」
「でも、ゆーこちゃんからの返事は一度も来なかった」
責めている口調じゃ、なかった。
不思議に思ってる訳でも、なさそうだった。
いつの間にかあたし達の歩みは止まり、雪也がただ淡々と、昔話を語るように、言葉を紡いでいた。
「ゆーこちゃん、筆無精だからね……でも、やっぱり返事、欲しかったな」
少し目を細めて、遠くを見るような目で、それでもやっぱりほのかな笑みは絶えないまま、雪也はあたしを見ていた。
正直、戸惑う。
それは、雪也が今まであたしに見せたことのない、表情だったから。
決して、手の掛かる弟が見せるような表情じゃ、なかったから。
「…なんてね」
ぱちんっ。
雪也の指が軽快な音を立てる。
その音で、あたしは、我に返った。
雪也が、照れ笑いとも苦笑ともつかない笑みを浮かべている。
「ごめんね、ゆーこちゃん。僕、真面目な顔は一分以上保たないんだよ」
…どうやらこれは本心から言ってるらしい。本当に照れくさそうな表情。
「……えっと、ゆーこちゃん?」
固まったままのあたしを、心配げに覗き込む、雪也の目。
「まだ幼稚園に上がったばっかりの娘に恋人を連れてこられた父親の気分だわ」
「…それ、どういう意味?」
「そのままの意味よ」
判らないよ〜、と眉を曇らせる雪也の頭に、あたしはぽんぽんっ、と手を置いて。
「いいから早く行きましょ。歩いてないと尚更寒いわ」
「う〜、教えてよ〜」
雪也の両肩を掴んで、ぐいぐい押していく。
肩越しに(しかも、あたしの方が背が高いもんだから、上目遣いに)あたしを振り返りながら、危なっかしい足取りで前に進む雪也。前向きなさいよ、なんて言いながら、それでも押す手を緩めないあたし。
…そう、こんな感じ。あたしと、雪也の、関係。これがあたし達の自然体。
一度思い出してみると、今までのぎこちなさがかえって不思議なくらいの、居心地の良さ。
変わっていない。
七年前と。
「どいてくれっ!」
結局、変わったと思ってたのはあたしだけだったのかも知れない。雪也も、伯父さんも、七年前と同じようにあたしに接してくれてる。あたしが、一人で線を引いてて…。
「ちょっ! どいてくれっ!」
「ゆ、ゆーこちゃん!?」
え?
雪也の声で我に返る。
…時既に遅し。
どだっ! むぎゅっ!
「ひゃっ!?」
「うひゃあっ!」
「うわっ!」
三つの声がきれいに調和する。
背中が痛い。
それから、冷たい。
ついでに、重い。
「つつつつつつ…」
男の子の声がする。
雪也じゃない。雪也よりよっぽど大人びている。
「あんたなぁ…どこ見て歩いてるんだよっ!」
あたし達を押し倒した張本人…それは、せいぜいあたしと同い年くらいの、栗色の髪の男の子だった。
少し赤みがかった虹彩が、あたしの目を覗き込んでいる。
「人を押し倒しておいて随分ご挨拶よね。そういう台詞は、とりあえず降りてからにして欲しいわ」
「…そりゃもっともだ」
…怒ってるのかそうでないのか、よう判らん。
ともあれ彼は、頭を振りながらさっさとあたし達(勿論、雪也も彼の下敷きになっていた)の上から降りると、転がっていた紙袋を大事そうに抱え上げ、それから、あたしに手を差し出してきた。
別に払い除ける必要もないので、厚意は素直に受け取っておく…というか、あたしが転ぶ羽目に合ったのは取りも直さず彼のせいなのだから、当然と言えば当然か。
「あなたこそ、もうちょっと前見て歩く余裕はなかった訳? 一概にあたし達だけが悪いみたいに言うけど」
起き上がって、コートに付いた雪を払いながら。
お互いに立ってみて判ったんだけど、あたしよりちょっとだけ背が高い。ということは、男の子としてはやっぱり、標準をちょっと割るんだろう。
「あんたが悪いっ! どいてくれって何度も言ったろ!」
「言えばいいってもんでもないでしょ! 大体、あたしそんなの聞いてないわよ」
「…あんた、反省の色ってもんがねーな」
「あなたもね」
見回してみると、いつの間にかここは商店街の入り口っぽい所だった。
なんだかんだ言って、目的地には着いていたようだ。
「ま、いいわ。済んじゃったことは。これからは気を付けてね…ほら、行くわよ、雪也」
「あ、うん…えーっと、どーもすいませんでした、うちのゆーこちゃんが」
あんたはあたしの保護者かっ。
ツッコミを入れようと思ってたんだけど、ふとやめる。
何故って、あたし達にタックルをかけてきた男の子が、いつの間にかさっきまでの気さくそうな笑顔をしまって、年相応(だろう、多分)の真面目な表情を覗かせていたから。
…あたしと同い年くらいってことは、雪也とも同じくらいってことになるんだろうけど、雪也にこんな表情は似合わないだろうなぁ。勿論、さっきの遠くを見る表情も似合ってなかった。おかーさん、悲しいわぁ。
「…あんたら、ちょっと一緒に来い」
ん?
あたしの、あまり出来がいいとは言えない頭脳が、その単純な言葉の意味を理解するより早く。
男の子は問答無用であたしの手首を掴むと、商店街の奥に向かって駆け出した。
「ひゃっ!?」
情けない悲鳴を上げながらも、かろうじてあたしの足は地面を踏んで、男の子に続いて駆け出す。
後ろの方で雪也が何か言っているような気がしたけど、あたしはそれどころじゃない。前を走る男の子についていくのが精一杯だ。
「ちょっ、何!?」
「悪く思うな! 追われてるんだ!」
「追われてる…って、誰に!」
「……」
彼は答えなかった。
その代わり、という訳でもないんだろうけど、あたしの手をぱっと放して、
「右に九十度!」
仕方なし、あたしもそれに続く。
入った道は、狭かった。
「狭いわよ!」
「真ん中の通りじゃ人目に付きやすいんだよ! 追われてるって言ったろ!」
「じゃああたし達に一緒に来いって言ったのは!?」
「ついて来りゃ判る!」
にべもない答え。
余程、前を走るその背中を蹴ろうかとも思ったけど、そんなことしたらあたしも悲惨な目に遭うことは請け合いなのでやめておく。
…に、しても、そろそろ、疲れてきた。
「どこ、まで、走る、のよっ!」
「…ここらへんで大丈夫かな?」
「あたしに、聞かないでっ!」
走り出した時と同じように、唐突に、その子は立ち止まった。
当然、いきなり止まったその背中に、あたしは派手に激突する。
「およ?」
はっきり言ってあたしは、やせ気味の体格をしている。だから当然、派手に背中からあたしのタックルを受けても、その男の子が倒れるはずなんてない。
と、思っていた。
いや、というか、事実その通りだったんだけど、一つだけあたしの予想外だったことがあったのだ。…それは。
「ゆーこちゃ、うひゃっ!」
結局、あたし達三人は、きれいに、雪の残る地面に倒れ込む羽目に合った。
「雪也っ!」
「う〜、だって〜」
「なんでもいいから、早く降りてくれっ」
あたしもそれは切実だ。
「う〜、ごめんね、二人とも…」
謝りながらのそのそとあたしの上から降りる雪也。
あたしもさっさと男の子の上から降りる。
「…なぁ、雪也くん」
冷たい地面にぺたんと座ったまま、雪也を見上げて、その子。
と、雪也、不思議そうに小首を傾げて。
…そういう仕草がまた、女の子っぽいんだってば。あたしなんかより、よっぽど。
「僕と君、会ったことあったっけ?」
「いや、ないぞ」
「…じゃあどうして僕の名前知ってるの?」
あたしが呼んでるからに決まってるでしょ。
「祐子ちゃんがそう呼んでた」
「…どうしてゆーこちゃんの名前まで知ってるの?」
「あんたが呼んでた」
「………呼んでた?」
『呼んでた』
きれいにハモった。
何やらそれがまた腑に落ちないらしく、しきりに首を傾げる雪也。
それはまぁ、いい。
「ところで雪也。あんた、いつからあたし達の後ろにいた訳?」
「そう、俺もそれを聞こうと思った」
「ん〜、あのね? そっちの…え、と」
男の子の方を見て言葉を濁す。
そういえば、あたし達は名前を知られているのに、あたし達はこの人の名前を知らない。
「少年Aでいい」
…おいおい。それじゃあたしは少女Aかい。
「少年Aくんがゆーこちゃん引っ張って行っちゃってね」
素直にそう呼ぶ雪也も雪也だ。
「だーっ、って走ってっちゃうじゃない? どんどん奥の方に行っちゃって見えなくなっちゃったからさ、あー、僕ひょっとして置いてかれたのかなーって思って、追いかけて来たんだよ」
しゃらっと言ってのける雪也。
あたしと少年Aは思わず目を見合わせて。
「…そんな、あっさり追いつかれるようなペースで走ってたつもりはないんだけど」
「でも、現に追いつかれてるわよ、あたし達」
それから、二人同時に雪也の方に視線を移して。
「わ、ユニゾン」
「人は見かけによらないもんなんだな」
「そうね…」
「…………ひょっとして僕、褒められてる?」
『褒めてない褒めてない』
またハモった。
つくづく雪也は幸せだと思う。うん。
「っと、忘れる前に渡しとくよ」
ごそごそと、手にした紙袋をあさりながら、少年A。
程なくして、その袋から湯気の立つたい焼きが現れる。
「ほら、戦利品だ」
「わ〜、たい焼き〜」
嬉しそうにそれを受け取る雪也。
確かに、きれいに焦げ目がついてて、香ばしい匂いもする、美味しそうなたい焼きだ。
「ほい、あんたも」
あたしにも一つ、たい焼きを差し出す。
「…ありがと」
雪也も、受け取ったそれを早速頬張っていることだし、あたしも遠慮せずにそれを受け取った。
にっこり笑って、自身も袋から取り出したたい焼きにかじりつく少年A。
「…おいしい」
満面の笑顔の雪也。
…ホント、十七歳には見えないんだろうなぁ。
「…ねぇ、少年A」
「なんだい、祐子ちゃん?」
「この子、いくつくらいに見える?」
にぱにぱ笑っている雪也を指す。
「……意外と言動がしっかりしてるからな、中学の真ん中くらいだろ」
「残念。だいぶ外れてるわ」
「…ってーとやっぱり、見た目通り、小学生?」
「もっと外れたわ」
やっぱりそれくらいに見えるらしい。
なんとなく安心したあたしは、今まで手に持ったままだったたい焼きに視線を落とす。
うん、冷めないうちに食べちゃおう。
「…そういえば、あんた、誰に追われてた訳?」
「……どうしても聞きたいか?」
少しだけ真顔になる少年A。
「当たり前でしょ。問答無用で巻き込んでおいて」
「…後悔しないか?」
「それは聞いてから決めるわよ」
「……」
少年A、溜息。
あたしは最後のたい焼きの欠片を飲み下す。
「実はな…俺を追ってたのはたい焼き屋のオヤジだ」
…嫌な予感…いや、確信があたしの脳裏に閃いた。
「何故また俺を追っていたかというとだな。この袋に関係があったりする訳だ」
「…ふくろ?」
雪也は判っていないらしい。
「ああ。正確に言うと、この袋の中身に関係がある」
「…何が入ってるの?」
「たい焼きだ」
「たい焼き…うん、たい焼き。君がたい焼き持ってると、たい焼き屋のおじさんが追いかけてくるの?」
「まぁな」
「それって…すごく理不尽じゃない?」
「いいや、全然そんなことはない。なんてったって盗品だからな」
「…え?」
「平たく言うと持ち逃げという奴だ。万引きとも言う」
大当たり。
「勿論、それを食ったあんたらも共犯者だ」
「…そんなことだろうと思ったわ」
思ったら食うなよ、なんて反応が返ってきたけど、それはこの際無視。
雪也は…というと、相変わらずにこにこしていた。事態が判ってるんだろうか?
…いや、多分判ってないんだろうけど。
「意外と驚かないんだな」
少し困ったように、少年A。
「…驚いて欲しかった?」
「まぁ、ちょっとな」
「あー、びっくりしたっ。…どう? これでいい?」
「…それはなんか、驚き方が違わないか?」
「気のせいよ、多分」
…黙ってしまった。
「ところであんた、名前は?」
身長差はそれほどない。少し離れて立てば、見上げることもなく目を見ることができる。
ハーフだろうか? 栗色の髪と、赤みがかった虹彩。
「…別にいいだろ、もう会うこともないだろうし」
少し困ったように、言う。
「別にいいでしょ。教えて減るもんじゃなし」
「減らなきゃいいのか…?」
「いいのよ」
「……また会うことがあったら、その時は教えてやるよ」
言うが早いか、まるで逃げるように走っていく。
「じゃあな、祐子ちゃん、雪也くん!」
手を振りながら、心底楽しそうな笑みを浮かべて、赤く染まりはじめた商店街の人混みの中に消えていく。
「またねぇ〜!」
大きく手を振ってそれに応えながら、雪也がぴょんぴょん飛び跳ねていた。
Fortsetzung folgt.
00/12/10 橘和馬