ばたんっ!
遠くで、勢いよくドアを閉めるような音がする。
どたどたどた…。
それから、板張りの廊下を駆け抜けていくような音。
それが通り過ぎると、部屋の中はまた、静寂に包まれた。
「…あえ?」
一連の音に違和感を感じたあたしは、目を擦りながら上半身を起こした。途端に突き刺さる、冷たい空気。
あたしは胸元に布団を引き寄せながら、まだぼんやりしたままの頭で思考を開始する。
まず。あたしの家族(両親と兄貴がいるんだけどね)に、ドアを勢いよく閉めるような人はいない。せいぜい、機嫌が悪いときの兄貴くらいだけど、あの人は去年の春就職して家出てったはず。
それから、あたしの部屋は廊下に面してないし、たとえ面してたとしても、うちはマンションだから、駆け抜けられる程の長さは廊下にはない。
…にしても、今日はやたら寒いなぁ。
半ば布団にくるまっていながらも、絶え間なく冷たい空気があたしに染み込んでくる。
「…あ、思い出した」
そうだ。あたしは昨日、この家に引っ越して来たんだった。
部屋を見回してみれば、あたしの部屋とは思えないほど殺風景な部屋。空っぽの本棚、何も置かれていない机…積み上げられた段ボール。
あたしはのろのろと布団から出ると、冷たいフローリングの上を爪先立ちして窓の前まで行き…カーテンを引いた。雪からの照り返しを受けた眩しい光が、部屋の中に入ってくる。まるで異世界みたいに白一色の、街並み。
「寒い訳よね…」
吐き出す息が白い。爪先立ってる指先も、すぐに冷たく冷え切ってしまう。
参ったな、あたし、冷え性なのに。
早速冷たくなり始めている指先に白い息を吐きかけながら、大きく服と書かれた段ボールを開いて中から適当に服を取り出す。デニムのスカートとシャツ、セーター、おまけにウインドブレーカー。
うー、もう少し厚めの靴下買っとけばよかった。足が冷たい。スリッパ借りた方がいいわ、うん。
布団を上げながらそんなことを考える。
「よし、っと…」
一通り部屋の中でやることが済んでしまえば、もうここにいる理由もない。
時計を見ると…八時過ぎ。
この時間ならもう、みんな起きてるだろう。みんなって言っても雪也と伯父さんしかいないけど。…昨日は結局伯父さんに会わなかったからなぁ。今朝いきなり鉢合わせたりすると気まずいかも知れない。
あたしが廊下に出るとほとんど同時に、隣の部屋のドアも開く。
「うう〜っ、僕の制服ないよ〜」
ドアの隙間から首だけを覗かせた男の子が、困ったように…見えないけど、困ったような口調で呟いていた。
「う〜、寒いよ〜、寒いよ〜」
…制服がないと寒い、ということは、裸ででもいるんだろうか?
「あれ、ゆーこちゃん」
気付かれた。
「おはよ、ゆーこちゃん」
にっこり笑いながら、まるで今までもそうだったみたいに朝の挨拶をする。
それがあまりに当たり前のようなリアクションだったから、あたしが思わず言葉に詰まっていると、
「…寝ぼけてる?」
「ちゃんと起きてるわ」
「じゃあ、挨拶は?」
「…おはよう」
「うん。おはよ」
そしてまたにっこり笑う。
七年前と姿は違っていても、やっぱり雪也は雪也だった。
恐ろしいくらいのマイペース、年齢よりもずっと幼く感じさせる言行、そして、無邪気で無垢な笑顔。
「あ、そーだ、ゆーこちゃん。僕の時間と制服がないんだよ」
そう言えばそんなことを言っていた。
「それで、ものは相談なんだけどさ。ちょっと分けてくれない?」
「…何を」
「ゆーこちゃんの時間と制服」
「…あたしの制服って、スカートよ?」
「あ、そーか…」
…何か今、ものすごく失礼なこと言われたような気がする。
「じゃあ、時間の方は?」
「無理よ」
「う〜、ゆーこちゃん意地悪…」
「意地悪ってあんた、誰に言ったって無理よ」
「う〜」
「…拗ねてる間に制服探した方がいいんじゃない?」
「う〜…ゆーこちゃんどこにあるか知らない?」
「あたしが知る訳ないでしょ」
「う〜…そんな、考えもせずに…」
「考えたって、知らないものは知らないわよ」
「う〜、困ったな…時間ないのに…」
「…伯父さんに聞くのが一番なんじゃない?」
「おとーさん昨日帰り遅かったし、きっとまだ寝てるよ」
「…制服にこだわらなくてもいいんじゃない? どうせまだ冬休みなんだし」
「顧問の先生にバレたら大変だよ」
「バレなきゃいい訳でしょ?」
「…そーだね、バレなきゃ大丈夫だね」
雪也の首がドアの向こう側に引っ込んでいく。
それから、ごそごそと衣擦れの音。
三十秒も待たずに、上下ともウインドブレーカー姿の雪也が姿を現した。ちなみに、色は黒で、背中にはなにやら白字でプリントが入っている。Yukiya
Minase…名前が入っているところを見ると、きっと部活か何かで作ったものなんだろう。
「今日は部活なの?」
先を歩く雪也の背中に問いかける。
「うん」
「何部?」
「陸上だよ」
「…陸上?」
とんとんっ、と軽快に階段を駆け下りながら、言葉を交わす。
「うん…って、どうしてそんなに意外そうなの?」
「意外だからよ」
「あ、なるほど」
納得されてしまった。
そうこうしているうちに、玄関まで辿り着く。
…よく考えたら、雪也に付き合ってここまで来る必要もなかったんだけど。
「間に合うの?」
「うーん、本気で走れば間に合うかな」
あたしは、雪也がどれくらい走れるのかも、学校までどれくらいあるのかも知らないから、本当は何とも言えないけど。
…絶対遅刻するな、雪也。うん。
「遅刻したらちゃんと謝っときなさいよ」
「うん、そうするよ」
「それじゃ、行ってらっしゃい」
「うん、行ってきま〜す」
片手を上げて、やっぱりにこにこしながら、ドアの向こうに、雪也の姿が消える。
………疲れた。
いくら七年前は一緒に遊んでいたからといって、今やお互い高校生な訳だし、それに七年もの長いブランクがある。気を遣うなって方が無理ってもんでしょう。
もっとも、雪也はそんなこと考えてないんだろーなー。ああいうところはほんっと、羨ましいわ。うん。
…しかし、雪也が部活に出てってしまったとなると、結局あたしは伯父さんと一対一で向き合わなきゃならないわけなのよね。…うう、また疲れそう。
「祐ちゃん」
「うひゃぁぁぁぁぁぁっ!」
いきなり後ろからかけられた声に過剰反応して、思わず飛び上がってしまうあたしの身体。
「伯父さんっ! 心臓に悪い登場の仕方はやめてくださいっ!」
「いやぁ、相変わらず面白いなぁ、祐ちゃんは」
雪也によく似た満面の笑みを浮かべてあたしの頭をぐしぐしなでているこの人が、雪也の父親にしてあたしの伯父さん、水瀬秋浩さんだ。
伯父さんは息子よりも娘が欲しかったらしく、姪っ子であるあたしをよく可愛がってくれた。…もっとも、うちの父親も娘バカで、よく伯父さんとあたしを争っていたような気がする。
ちなみに、両方から相手にされずに隅っこにいた雪也は、妹よりも弟が欲しかったあたしの兄貴が構っていた。
…に、しても。
「あたしがそーゆーのに弱いって憶えててやったんですね…」
まだ心臓がどくどく言ってる。
伯父さん、ようやくあたしの頭から手を離すと、やっぱり雪也に似た満面の笑顔で、
「はは、祐ちゃんがウチに来るって決まった日から、ずっと練習してたからね」
「練習って…」
「それにしても大きくなったなぁ、祐ちゃん。最後に会ったのは…」
「七年前です、ちょうど」
「…もうそんなにもなるかぁ。僕も雪也もずっと寂しがってたんだよ、祐ちゃんが来なくなってから、さ」
雪也と伯父さんが二人並んで寂しがっている構図…あまりにも似合っているような気がして、あたしは自分の想像力が恐くなる。
「何にしろ、ここから先一年はここで暮らすんだろう?」
「ええ、一応。高校卒業までお世話になります」
深々と一礼。
「そんなにかしこまらなくてもいいよ。祐ちゃんがいてくれると、僕も雪也も嬉しいからね」
「…そんなもんですか?」
「そんなものだよ」
にっこり笑うと、伯父さん、くるっとあたしに背を向けて歩き出す。
「朝、トーストでいいかな。…食べるよね?」
「ええ、いただきます」
廊下を抜けると、リビングがある。ソファ、テーブル、それからテレビとリビングボード。その先にはダイニングとキッチン。
雪也と伯父さん、男の人二人の生活にしては、随分片付いてるんじゃなかろうか。
…いや、母親が一度兄貴のアパートに掃除しに行ったことがあるんだけど、それはそれはぶつぶつ言いながら帰ってきたもんだから。それに、まぁ、男の人の所帯って、そーゆーイメージがあるじゃない。
「祐ちゃん、コーヒーと紅茶、どっちにする?」
「あ、コーヒーでお願いします」
ダイニングのテーブルにつきながら答える。
「砂糖とクリームは?」
「あ、ブラックで」
「ブラックかぁ…大人になったなぁ、祐ちゃん」
大人って…。
「…そうですか?」
苦笑するしかない。
「雪也は未だに、ミルクで薄めないと飲めないからね」
「…確かに、そんな感じしますね」
それもきっと、コーヒーよりミルクの分量の方が圧倒的に多いんだろう。ほとんど真っ白に近いミルクコーヒーを幸せそうに啜る雪也の姿が容易に想像できる。
「雪也、何か言ってたかい?」
「…いえ、別に」
「そうか…祐ちゃんが来たら喋りたいことが一杯あるんだってはしゃいでたんだけどなぁ、やっぱり照れてるのか」
ことん。
小さな音を立てて、あたしの前にトーストの乗ったお皿と、湯気を立てる液体の入ったカップが置かれた。
「ありがとうございます」
「卵でも焼こうか?」
「いえ、いいです」
そうか、と小さく呟いてから、伯父さん、キッチンに戻っていく。
その後ろ姿をぼんやり眺めながら、あたしは大きめのカップに手を伸ばした。
昨日雪也から渡された缶コーヒーとは比べものにならない程、強い香り。おいしい。
「そう言えば伯父さん、今日はお仕事は?」
伯父さんは確か、地元企業の工場に勤めている。あたしの記憶が確かなら、平日は伯父さん、いつも今頃の時間には出ていた筈。それなのに今日は何故かゆっくりと、まだ着替えもせずに寝間着のままコーヒーを啜っていたりする。
「ん、今日午前中は休み取ってあるから」
やっぱり笑顔の伯父さん。
…ひょっとしたら伯父さんが飲んでるコーヒーも、純白に近い色をしているんじゃなかろうか。
「あたしのため、ですか?」
うう、ちょっと罪悪感。
「いやいや、祐ちゃんをダシにしてゆっくりしようってだけだよ。そんな顔しないで」
苦笑気味に、伯父さん。気を遣ってくれてるのが手に取るように判る。
なもんで、ますます罪悪感…。
「昼前には雪也が帰ってくるから、そしたら僕工場行くから、後は雪也にいろいろさせてやって。あれでも、家事一通りはこなせるようにしつけたから」
雪也が家事…意外。
ちなみにあたしはほとんどできない。
うう…こんなんでいいのかな、ホントに何もできない居候だわ、あたし。
あの、あたしの後をちょこちょこ付いてきた雪也が、家事もできるようになってるっていうのに、あたしはこう、相変わらず家事もできないお転婆娘をやってる訳であって…あああ、穴があったら入りたい。
「祐ちゃん」
いきなり、耳元で声。
「どひゃぁぁぁぁぁっ!? 伯父さんっ!?」
「どうしたの、ぼーっとしちゃって」
「だからって、いきなり音もなく背後に回り込むのはやめてくださいっ!」
再びどくどく言い始めた心臓を上から押さえながら伯父さんを威嚇するように視線を送る。伯父さん、これは雪也が見せなかった、少し悪戯っぽい感じのする笑みを見せた。
「そうそう、それが祐ちゃんだよな」
…相変わらず、あたしはこの人には勝てないらしい。
「さて、僕は着替えてくるから、適当にくつろいでてよ。田舎だからテレビのチャンネルも少ないけど、ね」
言いながら、伯父さん、するりとあたしの横をすり抜けて、ダイニングを出ていってしまう。
それを見送ったあたしは、少し冷めてしまったコーヒーでトーストを胃に流し込んでから、
「はい…」
小さく、呟いた。
Fortsetzung folgt.